東京ぶらり散歩 参 | ||||||||||
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徳川家康が江戸に幕府を開いて四百年の今年、東京では「江戸開府400年」を記念した様々なイベントが行われている。 東京ぶらり散歩では今回、番外編として江戸・東京のなかで息づいた“津軽”を駆け足探訪で紹介します。 |
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[本所の津軽屋敷]@
上野のお山から神田小川町に引越した津軽屋敷
神田から本所に立ち退かされたのには諸説あるものの、“津軽屋敷の櫓太鼓”説がユニークとあって一般的に言い伝えられている。 江戸の大名屋敷では火災や時を告げるのに版木を打つのが常識。ところが津軽屋敷では委細かまわず、江戸のど真ん中で太鼓を叩き続けてついには幕府のお咎めを食らったというもの。だとすると、まさに津軽のジョッパリが災いしたことに。 当時、このあたりは低湿地帯の不毛の地。幕府は多くの焼死者をだした「振り袖火事」(1657年)を教訓に、一極集中した人口を分散するため「御府外」の造成を図るも、遅々として進まなかった。 津軽家の移転は「振り袖火事」の三十年後のこと。津軽家は広大な土地を与えられたものの、自前で宅地造成しなければならず、莫大な費用が国許の財政を圧迫した。 江戸上屋敷はいわば津軽藩の東京事務所。敷地は七千坪で、東西百メートル、南北二百メートルの広大な屋敷だった。 さらに、路地を隔てて中屋敷。
現在の錦糸町一丁目と、江東区の亀戸天満宮の本社裏には上屋敷をはるかに凌ぐ広大な敷地の下屋敷があった。 他の大名に比べて屋敷が多いのは、「御府内の東の果ては津軽なり」(柳多留)と言われた反発からくる、これまた津軽のジョッパリとエイフリコキなのだろうか。 当時、本所の津軽家を評しての様子を偲ばせる言い伝えに「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」がある。 現在の緑・亀沢町周辺は小中規模の商店、町工場などが軒を並べ、津軽家江戸屋敷跡の名残を示す標柱や標識もないものの、唯一、錦糸町・下屋敷跡にある「津軽稲荷神社」(写真下)が町内会の守護神として祀られ、津軽屋敷の痕跡を偲ばせる。 |