東京雑感   エレベーターはまいね? 2009.8.10
                                                    
「昔は薄暗い場所でさ」

 夏の夜の怖い話。科学が発達した現代では不可解な出来事が都市伝説にもなるが、幼少のころは幽霊が怖く、怪談話に身震いした。
 記憶にあるのは四谷怪談、番町皿屋敷、牡丹灯籠、耳無し芳一…。身の毛もよだつくらいだった。

 弘前市と鯵ケ沢町。父母の実家は双方とも屋敷が広く、なぜかトイレというか便所が奥にあって薄暗かった。真夜中に尿意をもよおすと床から起きあがるのが億劫で、1人でトイレに行くのは心細かった。
 お化けや火の玉が出やしないかと恐れおののいているから、周囲の空気や音に敏感で、生木を裂くような悲鳴でも聞こえたら間違いなくちびったろう。

 
「2つのお岩さまだ」


 先月、金鶏山真成院(四谷霊廟)取材に際して、四谷怪談で知られるお岩を祀る於岩稲荷田宮神社(通称・お岩稲荷、写真1)を訪ねている。

 といってもスナップを撮って早々に退散するのだが、真成院が午後5時で閉門するのを知らずに3度通い、その行き帰りに引き寄せられるように神社の鳥居をくぐった。通称お岩さま呼ばれているのか、鳥居の脇に木柱が建てられている(写真2)

 最寄り駅は四谷三丁目駅。外苑東通りから入った閑静な住宅街で駅から5分ほど。車1台しか通れない狭い路地にあって、左門町という古めかしい町名。胸騒ぎがしたものだった。
 実はお岩稲荷の筋向かいに於岩稲荷陽運寺(写真3)があり、どちらもお岩ゆかりの神社と寺院ということで、本家争いをしていると聞いた。


「怪談が本当なわけないべ」

路地を挟んでひときわ目立つ赤い旗がそれを物語っている。住宅街での赤は強烈な心象。胸騒ぎを覚えたのはそこが霊地というだけではなかった。
 お岩は江戸時代に実在したとか。お岩稲荷の歴史をはこうだ。

・1636年(寛永13年) 田宮岩没。お岩が信仰していた屋敷社が
お岩稲荷と呼ばれるようになり崇敬者が多数あった
・1717年(享保2年) 於岩稲荷社となる
・1825年(文政8年) 祭神・於岩さまを主人公にした東海道四谷
怪談(四世鶴屋南北作)が上演される
・1827年(文政10年) 文政町方書上に於岩稲荷神社の由来が
付される

 お岩は御家人田宮家の独り娘。養子で迎えた夫と夫婦仲もよく、家計を切り盛りして財政難にあえぐ田宮家を再興。お岩が屋敷内の稲荷を熱心に信仰したことのご利益で家運が上がったと評判になり、繁盛稲荷として屋敷社が広く知られるようになる
 東海道四谷怪談は鶴屋南北が江戸で評判のお岩稲荷の縁起話に絡めた戯曲で、お岩の生涯とは全く関係がない。
 

「人気のスポットだべさ」

 神社と寺院。どちらもお岩を祭神とあがめるが、自分は本家争いには関心がない(たたりが怖いだけなのだが…)。

 お岩稲荷は1879年(明治12年)に四谷左門町の火事で社殿が焼失したために、隅田川の近くにあった田宮家の屋敷に移転した。それが中央区新川にある於岩稲荷神社で、そこも終戦の年に戦災に遭ったが、その後に四谷ともども再建されている。
 お岩稲荷が東京都史跡として情報が多いのに対し、陽運寺の歴史はあまりふれられていない。
 陽運寺は世田谷区にある玄照寺の住職が現在地にお岩の木像を祀って1952年(昭和27年)に創建されたとか。お岩の誕生時に産湯に必要な水を汲んだといわれる井戸を有している(写真4)
 夫、伊右衛門に毒を盛られて非業の死を遂げたのは怪談話であって、実際のお岩は知徳にたけた良妻だった。お岩にちなんで家内安全、商売繁盛、縁結びなど諸々のご利益にあやかれるものなら、江戸時代でなくても万人が詰めかけるだろう。
 本家争いが本当なら、それだけ怪談で人気のスポットだったということの証左だ。
 

「夜は行きたぐないや」

 怪談が創作であっても、怖い映画を見た幼少のころの記憶は消えない。伊右衛門役だった天知茂の迫真の演技がよぎる。

 大刀を振り回しながらお岩の怨念で確実に死の淵に追いつめらていく。それを思うとお岩稲荷への夜の訪問は人影もまばらで避けたい。自分にはお岩の縁起話より怪談の方が勝っているからだ(写真5)

 先月だったが、自分が金鶏山真成院(四谷霊廟)に出掛ける際に、東京雑感をアップしてくれるS女史が「四谷でエレベーターさ乗ればまいねっきゃ」と意味ありげに言った。
「四谷といえば怪談(階段)さね。今回は先月に得たネタだったはんで、内心忸怩(じくじ)たる思いがあって、それを口にすると陰の編集長らしく『やっつけですか』だって。S女史にはたじたじだ」      
万年青年Y

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