東京雑感   津軽の出でよかったじゃ 2009.7.27


「津軽衆でないんだべか?」

 津軽宗?。1984年に作成された東京鏡ケ丘同窓会名簿の広告に「四谷霊廟(津軽宗真成院)」とあった。鏡ケ丘同窓会は弘前高校(前身は旧制弘前中学)OBの組織で、会員の笠井哲哉さんからの情報。
 笠井さんは有志らと都内で津軽藩の足跡をたどる「歩(あさ)ぐ会」の事務局で、ルート設定に欠かせない会の司令塔的な存在。藩史にも造詣が深い。
観音坂に面する真成院


 25年前の広告だが、当時の住職は弘前市出身の織田隆弘さん。1993年に亡くなったが、青森市郊外にある昭和大仏を建立した高野山真言宗の大僧正であった。
 四谷霊廟は現在、金鶏山真成院と称していて、津軽宗とはなっていない。笠井さんは「もっとも織田さんは弘前商家の出だそうですから、津軽宗を唱えることもありそうですが、津軽衆の冗句かもしれません」とメールで事実関係をかわすものだから、が然興味をかきたてられた。

 「昭和大仏でっかいや」

 織田さんの人となりは、四谷霊廟(金鶏山真成院)のホームページが分かりやすい。

先代(織田)隆弘師は信心に生きた実践の人でした。先師は16歳で当時、不治の病といわれた脊髄カリエスに罹り、苦しみから何とか救われたいと出家し高野山に上がりました。1982年に故郷である青森に宗派の枠を超えた青龍寺を創建し、日本最大の青銅製大日如来「昭和大仏」「金堂」を建立。その努力は晩年を迎えたころになってようやく実を結びました。

 昭和大仏の建立は1984年。高さが21.35bあり、鎌倉や奈良の大仏をしのぐ。取材で県南地方に車を走らせる途中、青森市の山手で林にそびえる偉容を仰いだ時は度肝を抜かれた思いがした。それは強烈な印象だった。

 「とにかく坂多いんだ」

 野次馬根性はなおらない。真成院を訪ねた。
 最寄り駅は四谷三丁目。新宿通りから北側の路地に入ると、住宅と寺院が混在した街になる。実に坂が多い。谷に落ちていくような感覚で、真成院の周辺は寺院街だった。
歴代住職が祀られている先住墓地


 真成院は鉄筋コンクリート造りの堅牢な寺だった。入り口が坂に面しており、観音坂と呼ばれている。江戸の昔から潮干十一観音がある寺として知られ、江戸三十三観音の第18番札所になっている。
 境内の端に歴代の住職を祀る先住墓地があった。隆弘住職は11世で名が石碑に刻まれている。ここで間違いなかった。
 受付で用件を伝えると「津軽宗ですか。前にも訪ねてみえた方がいました。この時間、住職はお務めなので大奥様が参ります」と親切な応対。前の人は果たして笠井さんだった。自分が尋ねたのだ。これなら話が早い。取材はすぐに終わるはずだった。

 「大奥様は優しい人だ」

 現れたのは故隆弘住職の妻トミヱさん。大正10年生まれと聞いたがお若い。柔和な表情で、気さくに応じてくれた。
 トミヱさんは先代と同じ弘前の生まれで、親の勧めで1943年に先代と結婚し翌年に長男が生まれた/先代は嫁ぐ1、2年前に真成院を買い取った/だが東京空襲で寺院が焼失したことなど、同郷のよしみでいろいろうかがえた。先代との間に2男6女をもうけている。終戦後は一帯が焼け野原で、寺の復興にはご苦労されたようだ。
荘厳なたたずまいの四谷霊廟。奥はトミヱさん

 本題の津軽宗は冒頭に尋ねている。
「津軽の大衆という意味で、それがいつの間にか宗派になった。本当は大衆の衆なんでしょうけれど、御前様は津軽の出だし、ずっと青森、弘前を愛していましたもの」
 御前様。先代のことで、貴人という思いからか最大級の尊敬の念が込められている。先代が郷里をこよなくを愛したエピソードの一つに四谷寮がある。
 敗戦の傷が癒えたころであろうか。受験や陳情などで上京する同郷の人のために境内に宿舎を設け、県人から四谷寮と呼ばれた。

 「伝説の市長の話っこも」

 四谷寮は今はなく、年代を尋ねる前にトミヱさんの口から黒石市の高樋竹次郎市長の名が飛び出した。
 「高樋市長は上京するたびに泊まられて。寮で働く女性の気立ての良さをいたく気に入って、黒石に連れて帰り向こうに嫁がせました」。先代と高樋市長が懇意の仲であればこその美談だろう。
 高樋市長といえば東北縦貫自動車道の黒石インター実現に奔走し、“弾丸道市長”の異名をもつ立志伝中の人。
 黒石市は財政赤字解消に向け今でこそ平穏だが、昔は市長選といえば二分する政争の激しい土地。高樋市長は大同団結を呼び掛け、今日ある浅瀬石川ダムと国道102 号バイパス建設を含め、あらゆる角度からインターの受け入れ態勢をとった。
 高樋市長の在任期間を考えれば陳情は昭和30年代半ばから40年代。当時は都内で県人を引き受ける宿泊施設は少ないだろうし、先代の元に多くの県人が一時的にせよ身を寄せ、交流したことは想像に難くない。

 「困った人を救ったんだ」
「密門会」の立て札も


 津軽宗。トミヱさんが説明する津軽の大衆という意味が何となくのみ込めた。先代はそれを寺の冠に据えるまでに津軽をこよなく愛していたというのか。
 四谷霊廟は寺院に併設されている。納骨堂を備えたいわば墓のマンションで、都心に近いことから人気のようだ。これも先代の発想で、都内でいち早く室内霊園を設けた。
 また正純密教を復興させ、密門会を創設している。仏教の本道から外れた新興宗教や、弘法大師の教えに反する雑部密教とは一線を画し、悪障が売り物の宗教に迷う人や難病に苦しむ人々の救済に尽くしている。
 帰る前にトミヱさんに霊廟を案内してもらった。エレベーターに乗った。4階から7階が四谷霊廟で、霊台が並列に組まれて荘厳な雰囲気。心が洗われた思いだった。

 「津軽のDNAだべさ」

 「(先代は)バイタリティーがあった人で、次は何をやるのかしらといつもビクビクしていました」。駅までの道すがらトミヱさんの言葉をかみしめていた。
 信心に生き実践の人だったという故隆弘師。その生き様をおぼろげながらも感じとれて、さわやな気分だった。
「津軽宗を標ぼうしたのは郷里の人が来やすいよう熟慮した末のことだったべか。故人のお話をうかがえたし、津軽のルーツを探る笠井さんのような人物が都内にいると思うと心強くもあり、津軽の出であることが誇らしいな」
万年青年Y


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