東京雑感   やっぱり世界一だべさ 2008.10.28

 「松戸に部屋あるんだ」
 大相撲鳴戸部屋の創立20周年の記念パーティーが10月初めに都内であった。
 鳴戸親方。ご存じであろう。
 旧浪岡町(現青森市)出身の第59代横綱隆の里。現役を引退して年寄鳴戸を襲名。二子山部屋から分離独立し、千葉県松戸市に部屋を構えている。

謝辞を述べる鳴戸親方。
人柄がにじんでいた


 堅実な指導には定評がある。幕内力士の稀勢の里、若の里(弘前市出身)ら弟子、行司、呼び出し、床山ら総勢30人を抱え、日本相撲協会の中堅部屋としての地位を築いている。

 彼は幕下時代に糖尿病を患った。治療に専念する傍ら節制に努め、酒席で野菜ジュースを飲んだ。また漢方薬博士とのあだ名を頂戴するまでに漢方薬を熟知し、角界では珍しかった筋トレに励んだりもした。

 そんな努力が実って、昭和57年初場所後に待望の大関昇進を果たす。初土俵から82場所の昇進は当時最長で、遅咲きの大器とささやかれもした。
 翌昭和58年の7月場所で14勝1敗で2度目の優勝を飾り、角界の頂点に立った。

 「横綱と同期なんだけど」
 同期入門の大鰐町出身の2代目若乃花(第56代横綱、現間垣親方)に遅れをとったものの、人一倍稽古に励んで病気を克服、おしん横綱といわた。

 思えばそれ以前は北の湖、若乃花ら昭和28年生まれの台頭が目立ち、花のニッパチともてはやされていた。隆の里は27年生まれ。彼らの活躍が華々しく報じられる中、地道に稽古に励み着実に力をつけていった。

 自分も28年生まれだが、早生まれのため隆の里とは学年が同期。それをお母さんに打ち明け大関を応援していると言ったら、目を細めて喜んでくれた。
 昭和57、58年と2年間、自分は黒石支社に勤務していた。隆の里が大関になり、綱取り場所が続いた時期と重なる。

 本場所も終盤になって、隆の里が優勝争いに絡むたびに浪岡町の実家に詰めた。勝てば賜杯争いのトップに立つとか、逆転優勝の望みが出てくるという日には、居間でテレビに見入るお母さんにカメラを向け、柔和な表情を狙った。
 勝って親戚などからの祝福の電話に応対する場面も撮影ポイントだった。
 当時は事件事故など暗いニュースが多く、明るい話題に飢えてもいたし、綱取りへの期待が高まっていたように思う。
 
 「取材に気を使ったんだ」
 星一つ差で隆の里が追っていたある場所の終盤、いつものように大関の実家の前に車を着けたら、他紙の記者が道端に車を止めラジオに聞き入っている。
 他社とはいえ、彼は年齢もキャリアも自分より上の尊敬する人で、取材先はもちろん、大関の実家で一緒に取材をすることが多かった。
 彼も今しがた到着したようで、車の窓越しに声をかけると「ヤギちゃん、おらだち行って隆の里が負げればまいねはんで、勝ったら家を訪ねるべ」と言う。
 勝負の世界。綱を目指す上り調子の大関といえども、毎場所優勝できるほど甘くはない。事実、前2場所ここ一番という時に実家に詰めながら、残念そうな表情のお母さんを見ている。
 納得して自分もカーラジオに聞き入った。その時は家にお邪魔せずに戻っている。

 「横綱の企画やったやな」
 だが、そうしたことが報われる日が来る。念願の綱取り場所を制した58年7月場所。夕方だが、その日は多くの人が実家に駆けつけ、テレビ桟敷の前は熱気を帯びた。
 大関が優勝した瞬間、みなバンザイや抱き合うなどした歓喜のシーンをファインダーで見た。
 程なく横綱誕生の企画を書いている。タイトルは忘れたが、立ち会いの速攻と豪快な上手投げが身上の千代の富士に対し、隆の里は筋骨隆々とした体を生かした力相撲で真っ向勝負を挑む。
 両脇を締めて千代得意の右差しを許さない。千代を土俵際に追いつめ、怒涛の寄り。盤石な体勢で…と書いた記憶が。
 

 「横綱と2人で食べたんだ」
隆の里は新横綱場所の翌9月場所を全勝優勝で飾る快挙。出世するまでは郷里に戻らないと固く誓い、16歳で上京した高谷(親方の苗字)少年。場所後、故郷に錦を飾っての満を持しての凱旋だった。

 水田の稲穂が黄金色に稔る季節で、おらが横綱のお国入りに町中が沸いた。町長表敬に記者会見、オープンカーによるパレード、応援している難病の子供たちの見舞い、祝賀会など日程は分刻み。 

 自分は企画で撮りたい写真があった。二子山部屋に入門するにあたり、角界の頂点を目指して世界一という品種のリンゴの苗木を植えたという。
 事前にお母さんにお願いして、パレード当日の午前6時半のアポとなり、遅れることなく実家にお邪魔した。
 そこで2間続きの和室で横綱と対面。テーブルに握り飯10個ほどと漬け物が。横綱が朝食がまだなら一緒に食べようという。お母さんも勧めてくれる。
 好意に甘えるとみそ汁が運ばれ、横綱と2人差し向かいでにぎり飯をほおばった。拳大のでかさにたまげていたら「田舎だから何もなくてねぇ」。横綱が申し訳なさそうに言った。
 
 「いつまでもお元気で」
 御馳走になって「では横綱、お願いします」と促して家のそばの園地で、世界一の実をつかんでもらって撮影し終えたら、横綱が「世界一じゃないかもしれない」と言う。
 自分は困惑して「では何の品種か」と問うと「わからない」。

抱負を述べる稀勢の里(左)と若の里

 実は赤く色づき時期的にふじでないことは確か。某スポーツ紙に入門時に世界一を植えたと報じられてもいて、自分の「わからないのなら、世界一かもしれないですね」に横綱がうなずいた。

 冒頭の設立20周年パーティーで鳴戸親方にそのことを話したら「あぁー」と微妙な反応。タニマチのお歴々ら出席者に気を使い、この後もセレモニーを控えていてせわしげだ。
母親に会いたいと言ったら「あぁ向こうの後ろの席にいますよ」と親しげに言われた。
 振り返ればお母さんとは25年ぶり。後方のテーブルは盛り上がっていて、誰が誰だかわからない。弟子に探してもらい、感慨深げにぽつんと座っているお母さんを見つけた。
 柔和な表情は以前のままで、変わらぬ姿に安堵して話し掛けると「私何もわからなくなってしまって」。
 綱取りの際に何度も家にお邪魔したことを伝え「当時はお世話になりました」と頭を下げると、昔のように目を細めて「そういえば、そういうことがありましたね」。積年の礼を言えた自分はもう満足であった。
 親方は毎年のように部屋の夏合宿を郷里浪岡で行っている。年に1回は母親に顔を見せなければと周囲に漏らしているとか。

 「親方は日本一、いや世界一の孝行息子だ。園地で横綱を写した時の実は世界一だったと、あれがらずっと思っていたさ。けっぱれ鳴戸部屋!」
万年青年Y

  

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