東京雑感   ついでに忠臣蔵外伝をば 2008.9.26

 「本丸さ1時間はみねば」

 「殿中でござる」。ここは皇居東御苑にある江戸城本丸松の大廊下跡(写真@)
浅野内匠頭長矩(ながのり)が吉良上野介義央(よしなか)に斬りかかった刃傷の場である。

 本丸の芝が先ほどの雨に濡れている。そこは花壇になっていて、植え込みの中に高さ60aほどの石碑が。説明板がないと通りすぎそう。
 畳敷きで本丸東南に位置する2番目に長い廊下と案内板に記されている。西に19b、北へ31b、幅約5b。廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが由来とか。
 





明暦の大火で飛び火により炎上した天守閣跡を示す天守台(写真A)が向こうに見える。巡視員が言った通り、百人番所(写真B)を通って本丸を巡り歩いたら1時間は優にかかった。
 

 「武士の一分だべさ」
 松の大廊下で浅野は脇差(小刀)で吉良の背後から一太刀、振り向き様に眉間を斬ったところで取り押さえられる。歌舞伎などで羽交い締めにされるシーンがよぎる。
 浅野は朝廷からの勅使を迎える饗応役を仰せ使い、吉良はその指南役。いわば上司と部下の関係で、あつれきがあったことが知られている。
 吉良は地元の三河では名君とうたわれ、最近はブログの書き込みなどで浅野が精神を病んでいたと疑う向きもあるが、自分はそうは思わない。
 武家社会。己の一分を傷つけられれば相手を斬って捨てる。ちゅうちょすると意気地がないと蔑まれ生き恥をさらすことになる。見栄や意地で命が幾つあっても足りない物騒な時代だが、大義名分などそうした思想文化が背景にあるのだから。
 
 「日本人は判官びいきさね」
 とはいえ殿中(将軍の居城)での抜刀はご法度。勅使の手前、面目を失った幕府は浅野に即日切腹を命じる。一方で吉良はお構いなし。この裁定が波紋を呼ぶ。
 喧嘩両成敗の慣例もあるのに、赤穂藩5万3千石は君主を失った上にお家断絶。表だってご政道に異議を唱える者こそいないものの、片手落ちとのそしりは免れず、ちまたの同情が旧赤穂藩士に集まる。ここでの吉良はヒールもヒール、敵役が決定的となる。
 吉良は隠居して下町の本所屋敷に移り住み、痛快時代劇として絵に描いたようにストーリーが展開するのはご存知の通り。
 事実は小説より奇なりというが、出来過ぎの感があるのも確か。歌舞伎や文楽が上演されて庶民に大受けだったわけで、演出のための脚色がなされていることも否定できない。

 「美しい歌だでばし」
 浅野内匠頭終焉の地は現在の港区西新橋あたり。奥州一之関藩の上屋敷があった場所で皇居にも近い。石碑があるはずだが、環状2号線工事のため東京都で保管、代わりに立て看板が建てられている(写真C)


 「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」

浅野の辞世の歌。無念さがにじみ出ている。
 浅野は国元に思いを馳せたろうが、刃傷に及んだことの後悔や改悛の情はみせず「上野介はいかが相成り候や」と最期まで吉良に憎悪の念をたぎらせる。まさに一分。
 戦国武将で強烈なる個性で異彩を放つのが織田信長。青年期に赤襦袢をちらつかせるなどアバンギャルドで奇矯な行いにより尾張のうつけとまゆをひそめられる。種子島銃に興味を示し南蛮品を愛用するなど異星人のよう。それに対し浅野は家柄など過去のしがらみを背負い込み、地味ながらも律儀なまでの一途さ、その精神性に惹かれる。
 一服の清涼感を残して歴史の表舞台を去った浅野。徳川幕府の安定政権下と片や戦乱の世。生きた時代が違うとはいえ、2人の武将は対極にあるように思う。
 
 「弘前に供養碑あるじゃ」
 話は変わるが、忠臣蔵にまつわる碑が弘前市新寺町の遍照寺にある(写真D)。高さ1bほど。いかにも古めかしく、「浅野内匠頭殿」「御家臣四十七人」と読める。
 赤穂浪士が津軽藩、弘前とどう結びつくのか。今回も長野県上田市在住のジャーナリスト工藤浩之さんにご登場を願う。工藤さんが寺の住職から説明を受けているのだ。
 何でも、江戸時代に講釈師が弘前にやって来て忠臣蔵をかたった。それが大入り超満員だったことから、感激した講釈師が礼として寺に碑を寄進した。幕府を批判する字句は削除したとか。なるほど裏は真っ黒。講釈師の名は寺でも分からないという。
 チャンチャン! これで終われば謎の供養碑なのだが、そこは尊敬する工藤さん、調べている。

 「建立者2人いるんだ」
 弘前市立図書館が発行する館報で2人の存在がクローズアップされている。はと笛260 号(1999年11月発行)と261 号(2000年1月発行)。
 吉良屋敷での赤穂浪士討ち入り=元禄15年(1702)12月14日=の報を伝える江戸から
の急使が程なく弘前城に入った。
 1人目は当時の家老瀧川水統伴(むねとも)。四十七士の忠勇を感じて翌年、ひそかに二河山白道院(遍照寺の前身)に墓石を建て冥福を祈った。これが後に城内の知るところとなり、国禁を破った者たちの墓石を建てるとは幕府をはばからない所業と、義士切腹から6年後の宝永5年10月免職になる。
 当時の4代信政は自身も義士礼賛の立場から家老を罰することはなかったという。

 もう1人は講釈師で名を多辺羅坊という。文化の末年(1800年代)、津軽に来て忠臣蔵を口演し大当たり。3両余りで義士追悼の墓石を注文し白道院に建てたが、ご政道誹謗の個所ありと碑文を削除された上に土中に埋められ、多辺羅坊は津軽追放の身となる。

 「50年、100 年当だり前?」 
 供養碑は明治23年(1890)に遍照寺境内から掘り出されたことが261号に記されている。建立者がどちらであっても、講釈師の存在は寺の話と符合する。
 弘前の庶民が講釈師の口演に熱狂したのは分かるが、赤穂浪士討ち入りから100年が経過している。講談で石碑を寄進するくらいだから、どれほど多くの庶民が詰めかけたろう。耳新しい話だったのだろうか。
 工藤さんいわく。「一般庶民は口伝でしか知り得ないので、江戸の情報が津軽に伝わるのに50年かかってもおかしくないでしょう」。
 義挙も国禁破りし者とのお達しでは、津軽藩とて上の限られた者だけで箝口令をしいていたろう。
 ネット社会。情報がリアルタイムで世界中を駆けめぐる現代にあって、情報伝達に50年かかるのでは亀の歩みより遅いかも。

 「閉鎖的なのも分がるじゃ。知らずに一生を終えるんだ。耐えられる? んだけど情報があり過ぎてもストレスたまるんだ」

万年青年Y

  

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