東京雑感   出たぁっ!? じぐなしだ 2008.9.2

 「津軽藩が町造りやった?」
吉良邸跡として保存されている本所松坂町公園

 元東京青森県人会事務局長で長野県上田市在住の工藤浩之さんから、隅田川対岸の造成を津軽藩が手掛けたとのご高説を拝聴した。
 工藤さんも認めているが、これは史実の裏付けがなく、現状では推論の域を出ないことなのであらかじめ了承を願いたい。
 自分も竹芝駅からすぐの東京都公文書館に足を運んだが、津軽藩が川向かいを造成したとの記述はない。とはいえ興味深いテーマなので現地を訪ねた。
 それが好奇心から吉良邸跡に立ち寄り、そこで怖い体験をするなんて思いもしなかった…
 
 「火消しは大変だったべ」
 時代劇のナレーションなんかで大江戸八百八町というが、これは多数の町が江戸に存在したという慣用表現で、幕府を開いてから150 年後の延亨年間(1744―1747)には倍以上の1678町あった。
 元は武蔵野の一寒村。開幕当初から江戸城を中心に町が造られていくが、1657年(明暦3)に未曾有の大火があり、幕府は江戸再建に向け新たな都市計画の必要に迫られる。
 江戸では火事が頻繁に起きていて、過密な人口を分散するために隅田川の対岸を再開発することになり、幕府は諸侯に造成を命じる。そこは萢と呼んでいる低湿地帯、いわば不毛の地だった。
 関ケ原の戦いから50年余り。諸侯はどこも藩財政が厳しく、幕府は懇願、時には脅し、泣き落としで諸大名を従わせようと躍起となる。
 工藤さんは大火から30年後、幕府がようやく白羽の矢を立て承諾させたのが津軽藩だったとする。4代藩主の信政は当時43歳の働き盛り。幕府は津軽藩の江戸上屋敷を神田から町造りの拠点となる本所に立ち退かせて造成工事をさせた。

 「広い敷地だったんだ」
 藩史は2つの日記、いわゆる通称、国元の津軽藩日記と江戸で書いた江戸藩邸日記とがある。定説というか、日記に基づいた歴史認識はこうだ。
 明暦の大火を教訓とした隅田川対岸の再開発が遅々として進まない中で、大火から30年たってから幕府は津軽家の江戸上屋敷を神田から本所に立ち退かせる。
 だが7000坪余りの広大な土地を与えられたがために、津軽家は宅地造成に莫大な費用を投じて国元の財政を圧迫した。
 日記には藩が隅田川の対岸を造成したという記述はないが、広い宅地を造成

津軽家の江戸上屋敷があった緑町公園
するために敷地周辺や資材を運ぶアクセスの整備は想定内で、やっていておかしくはない。
 それでも工藤さんは「東京都内では珍しいとされる碁盤の目のような水路、陸路が墨田、江東両区の一部にあるのは、新田開発で得た米俵をすべて注ぎ込んだ津軽怨み節の名残と伝えられている」と寄稿文に書くなど、揺るがない。

 「なぞ解きは難しいんだ」
 津軽藩の江戸上屋敷は現在の亀沢2丁目の緑町公園周辺にあった。公園は幹線の北斎通りに面していて、母親同士おしゃべりし、チビっ子が走り回っている。安らぐ光景だ。
 工藤さんが主張する、津軽藩によって碁盤の目のように整備された周辺の街並みを思う一方で、東京都公文書館で聞いた史料編さん係の「開発においては幕府が築地奉行をもうけ、国役を置いて事業をするので(一つの藩が事業に)どっぷりというのはどうでしょう」との言葉が脳裏をよぎる。
 とはいえ、郷土史に造けいが深い工藤さんならではのユニークな展開であり、今回のことで史実の重み、古文書解読やなぞ解きの難しさを教えられた気がする。
 比喩的だが、幾つものパーツが抜け落ちた未完のジグソーパズルがあるとしよう。そこに仮説というパーツをはめ込んで精査する手法は興味深く、ロマンをかきたてる。
 「ノンフィクションと思っています」と工藤さん。仮説を立てられるくらいに知識が豊富で、尊敬の念は変わらない。今後とも工藤さんのなぞ解きは続くだろう。

 「吉良屋敷が近いんだ」
 近くに吉良邸跡がある。忠臣蔵で知られる吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか)の

ご利益がありそうな邸内の松坂稲荷神社
江戸上屋敷跡で、本所松坂町公園として区が管理、保存している。
 緑町公園から直線にして500mほど。当時の吉良屋敷は津軽家には及ばないまでも敷地が2500坪あって、津軽屋敷とは目と鼻の先。 義央は松の廊下の刃傷事件後に隠居し、呉服橋門内から本所松坂町に屋敷替えになる。津軽家が本所に移転してから13年後のことで、主君の仇を討つ旧赤穂藩の有志にとって、整然と整備された町並みは迷うことがなく、活気もあって吉良屋敷の出入り人のチェックなど内偵もしやすかったろう。
 仇討ちの報を受けた江戸詰めの津軽藩士たちの反応はどんなだったろう。

 「幽霊、おっかないんだ」
 吉良邸跡は正面に「赤穂義士遺蹟 吉良邸跡」と刻んだ碑があり、わきのくぐり戸から入ると内部は意外にこぢんまりしていて松坂稲荷神社、義央の追慕碑、首洗い井戸、吉良家家臣二十士碑などがある。
吉良の首洗い井戸。不気味さが漂う


 内壁に忠臣蔵の絵巻がはめ込まれていて、公園らしくいすが置かれている。気が利いていると思ったのも束の間、首洗い井戸の由来を記した立て札にくぎ付けになった。
 赤穂浪士が仇討ちの本懐を遂げた後に義央の首を洗ったとある。 
 首筋にざわっとした悪寒が。風もないのに後ろのヤナギの枝がサワっと揺れたようだ。
 畳敷きにして60枚弱の、塀に囲まれた狭い空間に自分1人。人の気配がないのに何かざわめいて落ち着かない。赤穂浪士の討ち入りから300年以上の月日が経っているのに、義央の霊がこの地にどどまっている気がしてならない。
 「信仰心はないんだばって、思わず『南無阿弥陀仏』って唱えたさ。なして? 幽霊出たらおっかないべ。写真撮ってすぐに出たんだじゃ」 
                                    
万年青年Y
 

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