「めんこい像なんだ」
♪赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて
行っちゃった♪
ご存じ、童謡「赤い靴」。
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麻布十番の「きみちゃん像」
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野口雨情の作詞で知られるこの童謡は、遠い昔の哀しい物語として歌い継がれている。
「赤い靴」のモデルとされる女の子の像が港区麻布十番にある。名付けて「きみちゃん像」。麻布十番商店街の象徴ともいえる小公園、パティオ十番に1989年に建立された。
老舗とカフェ、ブティックなど新しい店とが混在する落ち着いた街にあって、パティオ十番ではケヤキが勢いよく伸ばした枝に青々とした葉をつけ、まるで都会のオアシスのよう。
「ちりも積もればだな」
像のわきに小さな募金箱がある。ユニセフのチャリティー寄金で、設立当初はなく後で設置された。
建立した日の夕方、誰かが像の前におカネを置いた。小銭で18円あった。
童謡に歌われる薄幸な少女を偲んでのことだろう。その後も像の前にはいくばくかの浄財が相次いだ。それが1日として絶えることがなかったことからチャリティーが始まった。集められた善意は世界の恵まれない子供たちのために役立てられている。
麻布十番商店街振興組合によると、この19年間で集まった浄財は1000万円の大台(今年3月末現在1083万円)に乗った。
一部を阪神大震災、今年はスマトラ大震災にも義援金として贈っている。
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ケヤキのあるパティオ十番
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「哀しいストーリーなんだ」
「赤い靴」にまつわる物語。多くの方がご存じだろう。
童謡のモデルになった女の子の存在が浮かび上がったのは、1973(昭和48)年11月に載った「雨情の赤い靴に書かれた女の子は私の姉です」との新聞投書がきっかけだった。
その後に民放が生い立ちなどを調べて番組を特集し、センセーショナルな話題をさらった。
モデルの女の子は岩崎きみ(1902―11)。静岡県で生まれ、程なく母かよに連れられて函館に移り住んだ。きみが3歳の時にかよが再婚して道内の開拓農場に入植することになり、アメリカ人宣教師夫妻の養女に出される。
宣教師夫妻はきみを愛おしんだが、本国に戻る際にきみが結核に冒されていて、長い船旅では体力がもたないことから麻布の鳥居坂教会の孤児院に預けられる。
きみは3歳で生みの親と別れ、6歳で育ての親となった宣教師夫妻とも別れ、孤児院で病魔と闘いながら1人寂しく9歳の短い生涯を閉じる。
「知らないでよがったよ」
♪横浜の 埠頭(はとば)から
船に乗って
異人さんに つれられて
行っちゃった♪
「赤い靴」は1922年に発表された。雨情は前年に歌詞を書いている。
再婚したかよの連れ合いは鈴木志郎、鯵ケ沢町の出身だ。志郎は過酷な農場生活を断念して道内の新聞社に就職、そこに勤めていた雨情と親交があった。
雨情がかよからわが子を泣く泣く手放した事情を聞かされたというのもうなずける。
かよはきみが宣教師夫妻とともに海の向こうで暮らしていると思い込んでいて、日本で結核で亡くなっているのを知らずに生涯を送ったといわれる。
「鯵ケ沢にも計画あるんだ」
童謡の歌詞やゆかりの地に像が建てられている。横浜市の山下公園の「赤い靴をはいてた女の子像」(1979年建立)から、北海道小樽市の「赤い靴 親子の像」(2007年建立)まで、麻布十番を含めて全国5カ所にある。
この5月には函館市がブロンズ像の建立計画を発表。母親との別離の地ということで、来年の函館開港150 周年にちなんで6月にお目見えする。
ところで古里の鯵ケ沢はどうなっているのだろう。きみの義父の出身地ということで3年前の町村合併50周年で記念碑建立の話が持ち上がっている。
町役場に電話で確認したら、寄付金が思うように集まらず具体化に至っていないらしい。志半ばで計画中ということか。
「教会の痕跡なかったじゃ」
♪今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に
いるんだろう♪
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鳥居坂教会があった十番稲荷神社
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幼少の頃、母親から歌って聞かされたような、頼りない記憶が。子守歌代わりだったか。ここまで歌うとまどろみの世界に落ち込んだような不思議な感慨を覚えるのはどうしてだろう。心地よいのだ。
歌詞と物語。事実関係があいまいではあっても、底流にあるつらく哀しいドラマが今も人々の心をとらえて放さない。
きみが亡くなった鳥居坂教会は現在の十番稲荷神社にあった。女子を収容する木造の孤児院で、きみは二階の片隅で熱にうなされながら母に助けを求めたろうか。
「『お母ちゃん』。空耳かな。像にカメラ向げたら急に雨粒落ちてきて。通り雨なのに、背広とカバンにカメラで両手がふさがっていたから焦ったじゃ。悲運な母子の涙雨だったのかも」
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