東京雑感   弘前公園といえばお城だべ 2008.4.11

 「桜は日本一だやな」
 鷹揚公園、春らんまん―。地元弘前公園のソメイヨシノの開花予想は4月17日とか。
例年にない早咲きだが、見ごろともなると万朶(ばんだ)の桜を愛でる人々がわが世の春とばかりに謳歌しよう。 

 古城と城郭に配した2600本の桜。妖しい魅力の夜桜に惹かれる一方で、朝は朝で堀端に漂うむせ返るような桜花のにおいに驚き、感動もする。

 晴れると本丸から西に岩木山が望める。この時期は懐に残雪を抱くが、陽気が上がるにつれて雪形といって山肌の変化する様で季節の移ろいを実感する。太宰治も小説「津軽」に書いているが、美形で、どこから見ても姿のいい山である。
 おっと、おらが山の自慢をしている場合ではなかった。
 いずれにしても古城に老松、そして満開の桜とのコントラストは絶妙。多くの売店、見せ物小屋などの興行街もあり、老若男女が集う。花に浮かれ酒に酔いしれる。まさに津軽の春本番ともいえる光景だ。

 「幕末のことだばって」
 ひっそりとたたずむ孤清の墓。
史跡指定を受けている


 いきなりだが、戊辰戦争のさなか、幕末から明治維新に至る重大な局面で弘前城の存続に尽力した藩士がいたという。
 弘前藩の京都屋敷御用人、西舘孤清(にしだて・こせい、1829年―1892年))がその人。
東京青森県人会の工藤浩之さんから先日、都内に孤清の墓石があると聞いた。しかも「孤清の働きがなければ弘前城はなく、公園で花見ができなかったのでは」と。
 工藤さんは元東京青森県人会事務局長で、旧制弘中の嶽籠城ストライキ事件を舞台演劇にした「朔日山晴れだが」の経緯と自らの半生をつづった「74歳同期会の挑戦」の著者。ご存じの方も多いと思う。
 温厚な方で、郷土史に造詣が深いうえ人脈も広い。ご高齢ながら(失礼!)執筆意欲は衰えを知らず、知識が豊富で尊敬もしている。

 「すごい人だったんだ」 
 孤清は工藤さんからの請けうりだが、工藤さんもまた江東区に住む弘前市出身の元公務員白浜智子さんを通じて孤清の功績を再評価したのだとか。
 彼女が執筆した「西舘孤清の生涯」が2005年12月刊行の区教委の公募誌「ふるさと歴史研究(第6号)」に掲載されたことで、郷土史家や歴史ファンの注目を集めた。
 孤清の最大の功績は1868年に鳥羽・伏見の戦いで勃発した戊辰戦争でのこと。
 当時、弘前藩は官軍と幕府軍、どちらにつくかで意見が割れていた。京にいた孤清は官軍の優勢を見てとり、それをいち早く国元に伝えようと腐心する。
 官軍の勢いはすさまじく、戦火の拡大を恐れた孤清は陸路を断念し、5500両もの大金を投じて米国汽船をチャーター、海路で十三湊から津軽に入った。
 孤清の情勢判断を踏まえた弘前藩は明治新政府の支持を決め、城は取り壊しを免れたという。
 
 「史跡になってたじゃ」
 そこまで聞くと、駆け出しのころからの野次馬根性を抑えられない。早速、孤清の墓石を訪ねた。菩提寺は亀戸天神のそばの長壽禅寺(江東区亀戸3丁目)。
 近くには弘前藩の江戸屋敷があった関係でか、藩士の多くが眠っているのだろうか。卒塔

藩士らが眠っている長壽禅寺の墓地

婆が幾つもあって、古い墓が目につく。

 墓地はさほど広くなく、目指す孤清の墓は墓地の奥中央にあった。秩父青石とみられる深緑の石に名が刻まれてあり、菊が手向けられていた。
 孤清の墓は幕末の藩論統一に顕著な業績を残したことで1988年に江東区の史跡指定を受けている。
 それはそうだろう。戊辰戦争で旧幕府軍についた藩は相次いで戦いに敗れ、降伏する。仙台城、会津若松城、米沢城、長岡城、盛岡城など、どれだけの城が戊辰戦争で焼失、廃城したことか。確かに孤清の功績は大きい。いや燦然と輝く。
 
 「鹿児島は生々しいんだ」
ところで、この3月に出張で鹿児島市を訪れた。NHK大河ドラマ「篤姫」で脚光を浴びているが、西南の役(1877年)最後の激戦地でもあり、鶴丸城址の石垣などに無数の鉄砲の弾痕が残っている。
 西郷隆盛が本陣をはった城山公園には、政府軍の総攻撃に遭って自刃するまでの最後の5日間を過ごした“西郷洞窟”があり、悲惨な歴史と戦争の生々しさを今に伝えている。
 
「天守閣に櫓、城門などが残っているのも彼のおかげなんだよね。そして戦災をも逃れて今日があるんだ。なんぼ有り難いんだして。今年は心して花見しないと…」。
                                                   
万年青年Y
 

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