東京雑感   459が ワの学生番号 2007.3.30

「変わってまった」
 3月下旬の初夏のような暖かい日に、母校の大学キャンパスに入った。卒業以来32年ぶり。学友と過ごした学生時代の思い出がよみがえると思いきや、あまりの変容ぶりに記憶の糸をたぐり寄せることができない。

入学式を控えてキャンパスの
ソメイヨシノは満

 講義棟をはじめ大学会館、図書館、研究館、どれも頑強な鉄筋コンクリート造りで、圧倒される思いだ。

 春休み中なので学内は閑散としていて、時折ラフな格好の学生や入学を控えた親子連れの姿が見られるくらい。学食は入り口に4月1日まで営業休止の張り紙が。2日の新学期から営業を再開するという。



 
「工業簿記まねくて」

 OBといっても、自分はギリギリで卒業したから大きな顔はできない。さかのぼれば、当時は陸奥新報社に就職が決まっていて、2月早々にアパートを引き払ったのはいいが、2年次に履修する必修科目の工業簿記を4年まで残していて、最後にヤキモキした。
 2月中旬か3月初めかはっきりしないが、とにかく弘前の実家にいた。工業簿記の結果が気になり、卒業者の番号を張り出す日に半ば衝動的に上京、一目散に大学を目指した。
一方では卒業証書を郵送してもらう手続きをとっていたのに、発表日が近づくにつれ、万が一にでも留年になれば会社に対して申し開きができないと、居ても立っても居られなくなったのだ。

 「走ってしまうんだ」
 学内の掲示板に張り出された卒業者の番号に、自分の「459」を見つけた時の安堵感、達成感は大きかった。
 あとで自分でおかしかったと思うのは、番号を確認して、すぐにとんぼ帰りしたこと。卒業の可否を確かめることしか頭になかったわけで、実家に戻ってから山梨出身の学友から「番号があったと伝えてください」との連絡があったことを母親から伝え聞いた。
 当時はアパートに電話をつけられる学生はいなかったから、連絡のとりようもなかった。東京に残っている山梨出身の彼や何人かの学友の住まいを訪ねればよかったと、後悔した。
 こうと決めたら後先を考えずに突っ走る性格で、友人に卒業者番号の確認を頼んでいたことをすっかり忘れていた。

 「勝負かけたんだばって」
 最後まで引っかかった工業簿記。必修科目だから単位を取らないと卒業はおぼつかない。2年間単位を取れなかった上、3年からアルバイトにいそしんだため講義への出席も滞りがちだった。
 卒業をかけた期末試験の前日、自分と同じく工業簿記を残している長野出身の学友と2人で、商業高校出の簿記が得意な友人から徹夜で教えてもらった。
 だが、それで合格点が取れるほど甘くはない。簿記計算は自分なりに計算して答えを書いたが、選択問題なんかは当てずっぽうでまったく自信が持てない。
 そこで、解答用紙の空白部分に「自分は地元の新聞社に就職が内定しています。教授の講義は3年間、誰よりも熱心に聴きました」と書いた。早々にアパートを引き払うつもりだったから追試なんてことははなから念頭になく、一発勝負というか賭けだった。
 変なことを書いたが、こんなことは真似してほしくない。若気の至りということでご勘弁を。当時は必死だったのだ。

大正時代に流行した新様式が施された
旧図書館「耕雲館」

 「見覚えあるじゃ」
 話を大学キャンパスに戻そう。右往左往するうちに、自分が卒業した年に完成した禅研究館を確認できたし、満開近い2本のソメイヨシノが往事をしのばせる。
 その奥にあった旧図書館を見た時にはビビッときた。細くなった脳神経に弱電が通ったよう。それは大学の象徴ともいえる歴史的建造物で、記憶の断片がよみがえった。

 「おみくじもらったよ」
 関東大震災復興事業と大正末期の大学昇格に合わせたキャンパス整備の一環で造られたもので、鋭角に突き出た稲妻形の壁がユニークで、その独創的な外観は否が応でも人目を引く。自分がいた昭和40年代後半は軽食喫茶みたいに使われていた。
 現在は禅文化歴史博物館として1階の常設展示室や各展示室を巡りながら、曹洞宗を中心とした禅の歴史と文化が理解できるようになっている。入場無料。1階ホール中央にある釈迦牟尼仏の穏やかな表情に心を洗われ、荘厳で落ち着いた時間を過ごせた。
 そこでいただいたおみくじを支社に戻って開いた。大吉だった。
東京勤務も4月から2年目。内気で純情、発展性のない人間だけに勇気づけられた。「ありがだくて、ありがだくて…。ご加護をお頼み申します」。
             
万年青年Y
 

もくじ