東京雑感 古里のかまり 2006.6.29

「取材さ行くべ」

梅雨時。雨の休日、終日一人で部屋にこもっていたらうんざりするが、幸いにも6月は総会シーズン、土日はほとんど毎週のようにどこかの県人会や高校同窓会からご案内を受けて、カメラ持参で出掛けている。
 
東京に来て間もなく3カ月になる。寝苦しい夜に話し相手が欲しかったりすることも。
それだけに、県人会関係の会合は多くの人と出会えるのだから楽しいし、それに津軽弁が聞ける。自分もそうだが、誰に遠慮するでもなくなまっていいのだ。会場は古里のかまりで満ちあふれる。
 
来賓紹介で陸奥報新社の人間と知って、初対面の人が親しく津軽弁で話し掛けてくる。
とっさに津軽弁が出ず内心慌てても、そこは人生経験が豊富なメンバー諸氏、上手に誘導してくれる。そんなことで、県人会関係者から大いなる刺激とパワーをもらっている。

「津軽弁しゃべろさ!」

こんな自分だが、学生時代は津軽弁のなまりに劣等感を持っていて恥ずかしかった。
上京した親父に下宿先で「どさ」「湯さ」のように必要最小限の言葉で近況を伝えたら、あとで下宿のおばさんが「お父さんとけんかしていると思った。話の内容もさっぱり分からなかったわ」と目を丸くした。
 
若かったのだ。
それがまたとんでもなく深刻で、陸奥新報社に入社しても津軽弁が出ない。
しびれをきらした同僚から「な、どごの生まれよ。鯵ケ沢? んだばこっちの言葉でしゃべればいべな」てな調子で責められたことも。
誤解されては困るのであえて書くが、同僚を含め当時の諸先輩は寛容で、こんな自分をかわいがってくれた。「わがヤギ(Y)さ酒、教えたんだよな」と言ってくれる尊敬すべき先輩が何人もいる。彼らには今でも頭が上がらない。

 
「ホントにしびれだじゃ」
 
人前で違和感もなく津軽弁を話せるようになったのは20代も後半。不器用というかシャイだったと思う。
それが農業を担当した年の秋、台風一過でリンゴ被害がないか園地回りをした際、ある老婦から「あんた地元の新聞社の人でも、言葉っこいいはでこっちの出身でないんだべ」と言われショックを受けた。
郷に入っては郷に従え。土着の人間なのに、地元の言葉を話さずしてどうして地域に根ざした取材、報道ができようか…。
雷撃にでもあったように体中しびれた。
 
そんな笑える過去があるだけに、津軽弁に誇りを持ち、大切にする県人会の皆さんには頭が下がる思いだ。
まさに郷土愛であり、望郷の念も人それぞれが歩んできた人生や時間の長さに比例するように強くて深いものだと思っている。

 
「おもしぇな」

ところで支社の紅一点、S女史の津軽弁は筋金入りである。旧木造町(現つがる市)出身。古典的な単語が彼女からポンポン出てくる。郷愁を覚えるくらいで、支社にとって彼女の存在は大きい。
 
部会と称して支社全員(4人)で飲むとアルコールの量が進む。東京のど真ん中・銀座で周りを気にせず話せる喜び、心地よさを覚えてしまった。
なまりがあるとかないとか意識はしないが、「おもしぇくて多分、津軽弁まる出しでしゃべってらんでないべか」と思うのだが…。
万年青年Y









東京黒石会の相澤俊三会長(左)と。
東京青森県人会の重鎮であり、情報交換なども
津軽弁で…

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