「通勤地獄だや」
通勤で利用する地下鉄半蔵門線、東急田園都市線は都内で1、2位を争う混雑路線。
夏だったが、車内が満員で乗降口から人があふれそうなのに、ホームから果敢に肉弾戦を
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乗換えで混み合う表参道の駅ホーム
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挑むOLがいた。出社時間に間に合わないのだろう。ミニスカートなど気にせず、太もももあらわに乗客の背中を押している光景に出くわしたときはあ然とした。
自然とホームの出入り口に近い車両を避け、混雑時は乗り過ごして次を待つるようにしているが、それでも車内で“押しくらまんじゅう”に付き合わされることはしょっちゅう。
「万札しかなくて」
学生時代はキャンパスから程近い所に住んでいて、渋谷に出るにも足はもっぱらバスだった。
アルバイトをした用賀のレストラン通いで苦い思い出がある。用賀の停留所で降りようとしたら、財布に小銭がなく、あるのは1万円札1枚。運転手はあきれ顔で両替できないと言い張り、バスを動かそうとしない。
両替できる乗客はなく困り果てていたら、土木作業員風の中年男性がバス代を払ってくれるという。バイト時間が迫っていて親切に甘えた。「1万円札があってもだめなことがあるんだよ」。男性にそう言われて住所や名前を聞かず、礼もそこそこにして降りた。
「めぐせがったな」
住民の足としての主役の座を地下鉄に譲ったとはいえ、国道246 号の玉川通りは現在もバスが走っている。料金は全線一律210
円(渋谷−二子玉川間)。当時は70円だったが、その後のインフレ、物価の上昇を考えれば高いとは思わない。
当時は月3万円の仕送りだったから、1万円は大金だったし、車内で万札を両替できないのも無理からぬことだった。
今だからこそ笑えるが、万札でバスに乗った出来事はその後も思い出すたびに赤面したし、非常識というか、小銭を持たなかった自分の浅はかさ、甘えがいやだった。
「質屋にも行ったっけ」
大学生活は3畳ひと間での下宿暮らしから始めた。まかない食付きで、仕送りの半分とちょっとが下宿代だったが、食事の心配がないため楽だった。
3年になって近くの国道沿いに新築4階建てのアパートを見つけて移った。家賃1万5千円。時間に縛られない自由な生活にあこがれたのだが、小遣いなどを稼がなければやっていけなかった。
その当時、質に腕時計を入れると3千円借りられた。大事な時計なので流さなかったが、当座の生活に困っては何度か質店ののれんをくぐった。
「若かったんだじゃ」
アルバイトは喫茶店、デパートへの商品搬入、ビルクリーニングなど、講義のない日に、あるいはサボタージュをしては“労働”にいそしんだ。ただその後、脂汗をかくような悪い夢を見るのには参った。
それは千葉県松戸の公団住宅でのビルクリーニングでのこと。
窓ガラスに付着した塗料の除去、手すりや壁面のヤスリ掛けが仕事で、1階から順に上がっていき最上14階で1棟が終わる。完成直後でエレベーターは稼働せず、最上階から下りて次の棟に移るが、棟と棟の間隔が1bほどだったのでこっそり屋上から次の棟に飛び跳ねたのだ。
若さ故での、怖いもの知らずだったとはいえ、夢の中では助走でつまずいたり、踏み外して屋上から棟の狭間を真っさかさまに落ちるのだから、よく恐怖で目が覚めた。そこは日払いが良かったからで、1週間でやめた。
「面白かったよ」
10カ月通った用賀のレストランは何と言っても食事が魅力。従業員の食事は一皿盛りで見てくれこそ良くはなかったが、シェフが腕を振うので味と食材の良さは折り紙付き。大概腹をすかせていたから本当にうまかった。
卒業を前に店長に辞意を伝えたら、厨房のコックたちや喫茶部のマスターらから惜しまれた。マナーに厳しかったフロア責任者が「どこに行っても(ウエーターで)食べていけるよ」と優しい表情で言った。
当時の自分には最大級のはなむけの言葉だったように思う。うれしかったし、その後に自信が持てた気がした。
世間知らずで失敗も多かったが、バイト経験は貴重だった。今になって当時流した汗や時間があたかも宝石のようにキラキラ輝いているように思える。
「まだ東京さ来られで良かったじゃ」。
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