秋元 謙治
和顔施(わがんせ)

                                                         


 年を取ると、若いときのようにギラギラした明日の話は疲れるばりだ。どうしても、セピア色にかすれたノスタルジックな話題に浸ってしまう。

 先日、ジャーナリストの集まりがあった。ジャーナリストとは大きく出たが、ある会報の編集委員をわんちか格好付けで呼んでみだばりだ。そんなジャーナリストの御歴々と一緒とあらばなお皿のこと。いやいや、なお丼?のことだ。

 「世の中には、身を慎むことを知らぬ恥知らずが多い」と、嘆く大先輩の話に相槌を打っていたが、話は突然タイムスリップした。気がつくと、昭和30年代の津軽に辿り着いていた。そこには、ジッコもババもアヤ、アッパも生きていた。「おらほにも居であった」、「おらほは隣町から朝のまんま食べでらころ、袋下げで来てあったよ」と答えていたのは、津軽衆だ。

 「ほいど?は知らないな」とは、南部衆のNさんだ。南部には「ほいど」という言葉がなかったのか、そのような人たちが存在していなかったのかは不明であるが「ほいと」という言葉は、辞書にも「陪堂(ほいと)」と記載されているので、そのような人はNさんの近くには居なかったということだろう。

 辞書では「陪堂」となっているが、わの説は「法衣奴」だと、美味しい酒で口は滑らかだった。わの学説の蘊蓄(うんちく)は後にして、まずは津軽衆の皆さんの話を聞いてみよう。

 板柳町のOさんは「おいでだば、米っこだばいっぺぇあるどごで、茶碗っこさ一杯けであったよ」。さすがは板柳町だ。津軽平野のど真ん中の町は、リンゴと米処で篤志家が多いようだ。「おいでだば、水飲み百姓だどごで、こじゃらこ(小皿)さ一杯だじゃ」と、おいのばさまがほいどの大きな布袋さ入れていたのを思い出した。その昔の津軽では、それぞれの身の丈の施しをすることで「こよなき幸せ」の御裾分けをしていた。隣近所に「わんちかだばって」の御裾分けが、当たり前だったのがあの時代だった。

 つがる市のKさんの話には、胸が熱くなった。K氏の実家は八百屋さんを営んでいたとのこと。そこのお客さんの中に、通い帳(掛け売りの帳簿・細長かった)を持って野菜を買いに来る人もいた。その一人に、ほいどをしていた人がいたという。彼は決して高価な買い物はせず、いつも安い野菜を買って行ったとのこと。K氏のお母さんは通い帳で売っていたが、心の中では払ってもらうつもりはなく、「施し」のつもりでいつも野菜を渡していたとのこと。K氏の話に、みんなはしんみりとしながら聞き入っていた。

 K氏は続けた。「でも、その人は毎月きっちと、支払ってけだじ」。なんとも律儀な人だったのだろう。飲まず食わずの生活の中で、優しい人たちからの施しを何らかの形で、お金に換えてK氏のお母さんにお支払いしていたのである。やむを得ない事情があって、そんな生活をしなければならかった彼も、精一杯の愛情を持って家族のために野菜を食べさせていたのだ。皆さんからの優しい心の「御裾分け」と、お父さんの深い愛で育てられたご家族は、きっと「こよなき幸せ」をつかんでいるに違いない。
 

布袋和尚(七福神)
大きな布袋を背負い、施しを求めて
歩いていた。唐に実在した僧侶。
満面の笑顔、これぞ「和顔施

 
 あとがき・・・

 「ほいと」は差別用語になっているが、あの頃の人たちは、あの人たちを笑ったり馬鹿にすることはなかった。あの人たちも皆さんからの「心施」や「財施」に支えられていることに感謝しつつ、精一杯の笑顔を私たちに返してくれた。
 
仏さまの教えで、お布施を頂いたお坊さんは「法施」をお返ししなければならない。「法施」とは、仏さまの教えを私たちに伝えること。あの人たちの「法施」は、にっこりと笑顔を見せ、和やかな顔を施す「和顔施」だったと、私は解釈している。

 エッセイの文中で「ほいど」と表現していますが、決して彼らをさげすんでいるわけではないこと。あの人たちを支え、あの人たちにも幸せをと、切に願っていたことを御理解して頂きたい。