秋元謙治
美しき哉日本

                                  
 義母がなくなってからの初詣は近くの曹洞宗長龍寺にお参りして、穏やかで平和な一年と家内安全を願い寂かに手を合わせている。

 今年の正月は、12月に亡くなった仁のためにも手を合わせて来た。その帰り道、津軽のけやぐ行治からの電話が鳴った。彼もまた仁がいなくなって寂しいのだろう「一杯やるべし」と、屠蘇の誘いだった。今年は「箱根駅伝の応援だじゃ」と詫びた。

箱根は『山の神』、東洋大学柏原竜二という生き神様の初詣で溢れていた。いつも応援している恵明学園近くの空地は、先客に占拠されていたので場所を変えざるを得なかった。

 私が箱根駅伝を応援するようになったのは、早稲田大学の瀬古選手が花の2区で歴史的な走りをしている頃からだ。権太坂を駆け上げる瀬古の背中を押すように、中村清監督が自衛隊のジープの上から歌う♪♪都の西北、早稲田の杜に・・・を聴いたのは40年も昔になる。

 早稲田の応援で忘れられないのが、平成3年の戸塚中継所でのことだった。鳴り物入りで早大に入学した櫛部静二は、1年生ながらエース区間2区に抜擢され、トップで襷を引き継いだ。  

 しかし、権太坂の心臓破りの坂は、彼の前に大きく立ちはだかった。不動坂を過ぎたあたりで櫛部は急変し、フラフラしていた。いてもたってもいられなくなった私は、櫛部を迎えに坂を下った。200mくらい下ったところに櫛部がいた。彼はまるで夢遊病者のようで、今にも倒れそうだった。

 何としても臙脂(えんじ)の襷を3区の花田に繋がなくては。「ヨッシ、俺が中村清監督になってやる」と胆をきめ、私は人目もはばからず♪♪都の西北、早稲田の杜に・・・を歌いながら櫛部を伴走した。

「優典(ひろのり)」ボード
ランナーは田村優典選手でhありません

「ヒロノリッ!」と、
櫛部静二監督の乗る運営管理車

あれから20年、櫛部静二は2年前から城西大学の監督をしている。今年の城西大学は5位で箱根の山を登ってきた。城西大は青森山田高出身の田村優典が走る。ふるさとの選手の応援にも熱がはいる。「ヒロノリッ、ヒロノリ!がんば!!」と叫んだ。私の横には「優典」と書かれた手製のボードも立てていた。

 優典を伴走する運営管理車に乗った櫛部監督にも、私の大声が聴こえたようだ。天下の剣は時折、雪が舞っていたが、櫛部監督は助手席の窓を開け、笑みを浮かべてお辞儀をしてくれたのだ。嬉しかった。櫛部静二は、あの権太坂で校歌を歌った私の声を覚えてくれていたのだろうか。いや、あの戸塚以来、私と櫛部静二は襷で繋がっていたのだ。


 第88回大会の記念に、竜二の応援ボード「飛竜」をバックに写真を撮ろうと思い、近くで応援していた同年代の紳士に、シャッターを押して下さいとお願いした。快く引き受けてくれた上に「もう一枚」と、2回もシャッターを押してくれた。なんとも優しい方だった。「有難うございました」と近づくと、彼は胸に小さな写真額を抱えていた。奥様の遺影だった。

「飛竜」 柏原竜二

 彼は静岡の方で、箱根駅伝は今日が初めてだという。車で来たが大渋滞で車を箱根峠に置いてきたとのこと。私の帰り道とは逆だったが「どうぞ」と助手席に乗って頂き、箱根峠を目指した。
 「箱根駅伝を応援に行こうねと約束をしていたのですが、昨年の8月に大腸がんで亡くなり、今日はその時の約束を果たしにきました」と話してくれた。自らに残された命が短いことを覚り、あらん限りの力を振り絞って生きようとしていた奥様を愛しむように語ってくれたのでした。短い間の語らいだったが、彼の「来年もまたあそこで応援しようと思っています。また会えるかもしれませんね」の優しい言葉に胸が熱くなった。

 芦ノ湖へ向かう道は渋滞で動かない。カーテレビに目を向けると、竜二が「福島の皆さんに比べれば、僕が苦しいのはたった1時間ちょっと。全然、苦しくない」と優勝インタビューに答えていた。

 なんとも美しき哉日本。