多田野 フー子
☆ハルさんの日常茶飯事
電車の支配人


いつもの通勤電車をいつものホームで待つ、いつもの朝のハルさんである。


電車が駅に着きドアが開いた。

大勢の降りた人が出口に向かい、ホームで待っていた人達が一斉に
電車に乗る。

そんな時、
「おはようございます。
わたくし、本日からこの電車の支配人になりました。どうぞよろしく
お願いいたします。」

「本日、名刺は持ち合わせておりませんが、どうぞこの顔を
お見知りおき下さい。」

声のする方を見ると、白シャツ、黒ズボン、革靴のサラリーマン風の
40代男性。話す口調は、まるでフーテンの「寅さん」だ。


「ドアの前は込み合います。どうぞ中の方にお繰り合わせ下さい。」

「この電車は、神奈川沿線から東京方面へまいります。」

「皆様を安全に目的地までお連れするのが、わたくしの使命と心得ております。」

彼は大真面目である。

車内は
「ん? 何だ?」
って顔をする人と、そこにそんな人は存在しないと見向きもしない人、
色々である。


「ご乗車ありがとうございました。
ご降車の際は、お忘れもの落とし物がないようお気をつけ下さい。」

大勢の乗客に押しつぶされそうになりながら、
「わたくし、となりの車輌に移動致しますが、ご用の際は…」

(…ご用の際は、どうするの?) と、興味津々のハルさん。

「ご用の際は、わたくしをお探し下さい。」

(探すの…ね。)

しばしの平和な時間。

(あっ、また戻ってきた。)

乗客の間をスルスル通りながら、
「まもなく終点です。
本日は、ご乗車ありがとうございました。
またのご利用をお待ちしております。」








「電車の支配人」は、ホームにいた制服を着た本物の駅係員の
後ろに立ち、お客様を会釈でお見送り。

見届けた後、折り返しの電車に乗り込んだ電車の支配人。

彼の長い初日はまだまだ続く…のかな?


二日ほど後の帰宅時、電車に乗ったら…、いました、いました「電車の支配人」


「皆様、本日のお仕事、お疲れさまでした。」

「わたくし、こういう者でございます。」
と、言って自分の手のひらを乗客の一人に見せる電車の支配人。

名刺のつもりらしい。

その乗客もつられて、電車の支配人の手のひらを見る。

電車の支配人の周りには、穏やかな笑いが広がっていた。

その時、
「わたくし、この度転勤することになりました。」

ハルさん (えぇっ〜。いなくなるの?)

「今度の勤務先は、○武線です。」

「わたくし、7:30の電車に乗務しております。お見かけしましたら、どうぞご遠慮なく声をおかけ下さい。」

「○武線は、歴史も長く……。」と、朗々と説明する「電車の支配人」


この線からいなくなるけど、近郊にはいるのね。
ちょっと寂しく思う
ハルさんであった。


ひょっとしたら、あなたも明日、どこかで会うかも知れませんよ、
「電車の支配人」に。

                                                        

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